【確認テストつき】ウィーン体制とは|高校世界史

・ウィーン会議の結果、どの国がどこを獲得したんだ?

・七月革命と二月革命の違いは何だ?

・ギリシア独立戦争〜エジプト=トルコ戦争までの流れが曖昧。

フランス、イギリス、ドイツ、ギリシア、オスマン帝国と複数の国の状況を1つずつ整理しないといけないウィーン体制の流れは厄介なものです。

あまちゃん先生
あまちゃん先生

ウィーン体制の流れを初めから一気に解説します。

そこでこの記事では以下の内容について解説します。

  • ウィーン会議
  • ウィーン体制の動揺と七月革命
  • イギリスの自由主義的改革
  • ギリシアの独立と東方問題
  • 社会主義思想の成立
  • 1848年革命

最後にはウィーン体制の流れをより深く定着させる確認テストもあるので、是非最後までお読みください。

ウィーン会議

1814年から翌年にかけて、フランス革命とナポレオンによる一連の戦争の戦後処理のため、(オスマン帝国)を除く全ヨーロッパの支配者が参加する国際会議が(ウィーン)で開かれました。

会議では、議長となったオーストリア外相の(メッテルニヒ)の主導で、列強間の合意に基づく国際秩序の再建がはかられるも、各国の利害が複雑に絡み合っていたのです。

またナポレオンの(百日天下)などの事態が生じたため、議論はなかなか進まず、半年かかってようやく最終議定書(ウィーン議定書)の制定が始まったのです。

まずフランスの(タレーラン)外相の主張する(正統)主義によって、フランスやスペインで(ブルボン)王家が復活したのです。

ロシア皇帝は(ポーランド)国王を兼ね、プロイセンは東西に領土を拡大し、イギリスは旧オランダ領の(スリランカ)・(ケープ植民地)の領有が認められました。

オランダは旧オーストリア領ネーデルラント(ベルギー)を譲られ、オーストリアは北イタリアの(ロンバルディア)と(ヴェネツィア)を併合しました。

またスイスは(永世中立国)となりました。

神聖ローマ帝国の復活は実現しなかったのですが、オーストリアとプロイセンを含む35の君主国とハンブルクなど4自由市で構成される(ドイツ連邦)が成立しました。

ウィーン会議の結果、フランス革命とナポレオン体制下にヨーロッパ各地に広まった(自由)主義と国民主義(ナショナリズム)は抑えられ、ヨーロッパの政治的現状維持を目指す、メッテルニヒらの(保守主義)が優位になったのです。

ウィーン会議で認められた国際秩序は(ウィーン体制)と呼ばれ、ウィーン会議以後、列強の協議によって勢力均衡と平和を維持する仕組み(列強体制)が定着したのです。

列強体制の柱となったのは、(イギリス)と(ロシア)であり、イギリスは圧倒的な経済力と(海軍力)を背景に、19世紀の世界で強力な影響力を持ち、そのもとで(パクス=ブリタニカ)と呼ばれる国際的には比較的な平和が保たれたのです。

一方、巨大な(陸軍)をもつロシアは、1815年皇帝(アレクサンドル1世)が(神聖)同盟を提唱し、イギリス・(オスマン帝国)・(ローマ教皇)を除くヨーロッパ全君主が参加しました。

またイギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアで(四国同盟)が結成され、1818年には(フランス)も加わり、(五国同盟)となり、革命の再発を防止し、ウィーン体制を守るためには武力行使を含めて対応することが定められたのです。

ウィーン体制の動揺と七月革命

革命前の身分制社会を認めるウィーン会議での(正統主義)は、フランス革命からナポレオン戦争に至る時期に、フランスからヨーロッパ各地に広まった、身分制を否定する(自由主義)・(ナショナリズム)と真っ向から対立するようになったのです。

小国が乱立していたドイツとイタリアでは、(正統主義)に対する反対運動は、自由主義的な統一国家を求める(ナショナリズム)運動というかたちをとりました。

1815年、イエナ大学で結成された学生組合(ブルシェンシャフト)は「名誉・自由・祖国」をスローガンに、自由主義的な改革とドイツの統一を求め、瞬く間に各地の大学に広まったのです。

危機感を感じた(メッテルニヒ)はブルシェンシャフトを解散させ、思想統制を強めたのですが、

自由主義的なドイツ統一運動はその後も形を変えて続いたのです。

イタリア半島では、1820年代に入り、自由主義・立憲君主政・イタリア統一を目指す秘密結社(カルボナリ)がナポリやトリノで武装蜂起し、憲法の制定や君主の交替を実現したのですが、(オーストリア軍)の介入によって鎮圧されました。

スペインでは、ナポレオン没落後に(フェルナンド7世)が復位して、絶対王政の復活を宣言したのですが、1820年、自由主義派の軍人たちが憲法制定を承認させ、1822年には国王を廃位して革命政府を樹立したのです。これを(スペイン立憲革命)と言います。

しかし、事態を重く見た(五国同盟)は(フランス軍)の介入を決定し、スペインの革命政府を破りました。

ロシアでは1825年、皇帝専制に反対する軍人たちが(デカブリストの乱)を起こし武装蜂起しましたが、直ちに鎮圧されました。

その後は、(ギリシア)の独立やラテンアメリカでの独立運動が相次ぎ、メッテルニヒはこれらの独立運動にも反対したのですが、干渉することが出来なかったのです。

それはイギリスが(カニング)外相の指導のもと、ラテンアメリカ市場の開拓を狙って、独立を支持するなど、メッテルニヒのやり方に対して距離を置き始めたからなのです。

1830年代に入ると、自由主義・ナショナリズムが正統主義よりも優位に立つようになりました。

それはフランスで起きた2度目の革命からにあります。

フランスでは、ルイ18世を継いだ国王(シャルル10世)が厳しい(制限選挙制)をとる立憲君主制のもとで、貴族・聖職者を重視する反動政治を行いました。

フランス国民多数からの不満に対してシャルル10世は1830年、オスマン帝国下の(アルジェリア)への遠征を実行しました。

しかし、1830年6月から7月にかけて実施された選挙で(自由主義)派が勝利すると、国王は議会を解散させ、参政権を制限する王令を発したのです。

パリの民衆とブルジョワジーはこれに反発して武装蜂起し、3日間の戦闘の後に国王に亡命を強いたのです。これを(七月革命)と言います。

七月革命後は、ブルボン系の中の自由主義者として知られたオレルアン家の(ルイ=フィリップ)が王に迎えられ、(七月王政)が成立したのです。

この七月革命の影響は各地に広がり、(ベルギー)はオランダから独立し、1831年に立憲王国となりました。

その一方で、イタリアでは、教皇領・ボローニャなど中部各地で(カルボナリ)が蜂起したのですが、オーストリア軍に鎮圧されたのです。

その後のイタリア統一運動の中核は、カルボナリ党員だった(マッツィーニ)が敗北の混乱の中で結成した(青年イタリア)によって担われることになりました。

ポーランドでは、ナショナリストや自由主義者が、ロシアからの分離独立を求めて1830年に蜂起するも鎮圧され、逆にロシアの政治的・軍事的な監視が強化されるようになったのです。

イギリスの自由主義的改革

イギリスでは18世紀以来(トーリー党)の政権が続いていましたが、1820年代に入ると自由主義的な政策が目立つようになりました。それは、産業資本家など、産業革命を担った(ブルジョワジー)の発言力が高まっていたからなのです。

1824年には(団結禁止)法が撤廃されて、労働組合の結成が認められました。

1828年には(審査)法が廃止され、1829年に(オコンネル)らアイルランド人の運動の結果、(カトリック教徒解放)法が成立して、国教徒以外でも公職につけるようになりました。

また庶民院の選挙制度は、土地所有者のみを有権者とする特殊な制限選挙制度が採用され、極端に有権者数が少ない(腐敗選挙区)が農村部で目につくなど、選挙制度が産業革命後の社会の現実にあっていなかったのです。

参政権のない(ブルジョワジー)や民衆を中心に不満が高まったため、1832年にホイッグ党内閣が(第1回選挙法改正)を行いました。これにより、(腐敗選挙区)が廃止され、工場や企業の経営者を中心とする一部の(ブルジョワジー)に対する(参政権)の付与が実現したのです。

ただし、制限選挙制度は維持されたため、より民主的な選挙制度を求める労働者は1830年代後半から、男性普通選挙、議員の財産資格の廃止など(6)ヵ条からなる(人民憲章)を掲げて政治運動(チャーティスト運動)を起こしました。

産業革命の結果(世界の工場)となったイギリスは、この時期、産業資本家に有利な(自由貿易)政策を実現しました。

その中の代表例が(コブテン)・(ブライト)らが参加した(反穀物同盟)運動の結果による1846年の(穀物法)廃止です。

またこの前に1834年に東インド会社の(中国貿易独占権)が廃止され、1849年に(航海法)も廃止されたのです。

ギリシアの独立と東方問題

1821年、オスマン帝国内の(ギリシア)が独立戦争を起こすと、イギリス・ロシア・フランスは、オスマン帝国領土に対する政治的・経済的な勢力を拡張するために、この独立運動を支援したのです。

1826年、イギリス・フランス・ロシア3国は軍事介入を開始し、1827年の(ナヴァリノの海戦)でオスマン帝国艦隊を壊滅させました。

さらにロシアはオスマン帝国に正式に宣戦布告し、優勢下に戦争を進めて、1829年に(アドリアノープル条約)を結び、ダーダネルス・ボスフォラス両海峡の自由通行権と(ギリシア)の独立を認めさせたのです。

この翌年の1830年に(ロンドン会議)が開かれ、ギリシア独立は国際的に承認され、1832年に(ギリシア王国)が成立しました。

1831年には、オスマン帝国の属州として自治を認められていた(エジプト)太守の(ムハンマド=アリー)がギリシア独立戦争でオスマン帝国軍を支援した見返りとして(シリア)の領有を要求し、これを拒否したオスマン帝国と(第1次エジプト=トルコ戦争)を起こしました。

ロシアは南下政策を進めるために(オスマン帝国)を支持し、これに対抗するためにイギリスとフランスはオスマン帝国にエジプトとの和解を要求し、シリアはエジプトの支配下に置かれました。

この結果に不満を抱いたオスマン帝国とロシアは相互援助条約として(ウンキャル=スケレッシ条約)を1833年に結び、オスマン帝国はロシアにダーダネルス・ボスフォラス両海峡の軍艦通行独占権を与えたのです。

しかし、今度は東地中海地域における主導権をめぐり、イギリスとフランスが対立すると、フランスが(エジプト)に接近し、イギリスはロシア・オーストリア・プロイセンとともに(オスマン帝国)の支持にまわり、再度エジプトとオスマン帝国が戦った(第2次エジプト=トルコ戦争)ではオスマン帝国側に立って、戦争を終わらせたのです。

1840年、戦後処理として(ロンドン会議)が開かれ、イギリス主導のもと、エジプトが(シリア)の領有放棄、ダーダネルス・ボスフォラス両海峡の軍艦通行禁止が定められたのです。

このオスマン帝国領内において、自由主義・ナショナリズムそしてヨーロッパ諸国の利害が複雑に絡み合う中で生じたこれらの紛争は、(東方問題)と呼ばれたのです。

産業革命期のイギリスでは人口が急増し、全体として国の富は増大したものの、労働者の生活は悲惨でした。

それは工場労働者だけでなく、伝統的な手工業者も機械制工場の発達によって生活がおびやかされ、1810年代には手工業者による機械打ち壊し(ラダイト運動)が起こりました。

社会主義思想の成立

繊維産業で財を成した(オーウェン)は社会問題に関する関心から、自らが経営する工場における労働条件の改善や、(労働組合)や協同組合の結成の支援を行いました。

社会問題の発生や労働組合活動の活発化の事態に対処するべく、イギリス政府は未成年者の労働時間制限と労働監督官の設置を定めた一般労働法(工場法)を1833年に制定しました。

フランスでも(サン=シモン)・(フーリエ)らが労働者階級を保護する新しい社会秩序を樹立しようとしました。

また(ルイ=ブラン)は生産の国家統制を主張し、(プルードン)は全ての政治的権威を否定する無政府主義を唱えました。

ドイツでは(マルクス)と友人の(エンゲルス)が経営者と労働者が雇用関係を取り結ぶことにより、前者が後者を搾取することが可能となり、そこから社会問題が生じると主張しました。

そして、社会問題は資本・賃労働関係を廃絶しなければ解決せず、そのためには労働者による(階級闘争)が必要であるという思想(マルクス主義)は1848年に発表された(『共産党宣言』)に要約されています。

1848年革命

19世紀前半、イギリスに続いて、フランスでも(産業革命)が本格化し、プロイセンなどドイツ諸領邦でも改革が進みました。

しかし、新しい産業社会は未成熟であり、労働者など下層民衆や貧しい農民に十分な雇用機会を提供出来ておらず、これに人口が増加したこともあって、貧民層が増大する(大衆貧困)と呼ばれる深刻な社会問題が広まったのです。

1840年代後半には、こうした状況にさらに凶作と不況が加わり、ヨーロッパ各地で現状の改善を求める革命的気運が高まったのです。

七月王政下のフランスでは、銀行家など一部の富裕層に富が集中し、選挙権も高額納税者のみに与えられる極端な(制限選挙)による政治が行われていました。

参政権を得られなかった小ブルジョワジーや民衆は不満を抱き、(参政権)の拡大や男性普通選挙制度の採用など選挙制度改革を求める運動に乗り出したのです。

ここに不作による農民の困窮化が、彼らによる衣類など工業製品の購入低下に繋がり、

次に工業部門が不況に陥り、フランス経済全体が危機を迎えたのです。

1848年2月、このような状況のもとパリで革命が起こり、国王(ルイ=フィリップ)は亡命し、共和政の臨時政府(第二共和政)が樹立されたのです。これが(二月革命)です。

臨時政府には社会主義者(ルイ=ブラン)や労働者の代表も加えられたのですが、ブルジョワジーや農民は急進的な政策を望まず、(男性普通選挙)制による1848年4月の選挙で(社会主義者)は大敗したのです。

結果、臨時政府が失業者のために設立した(国立作業場)を、財政負担を理由に廃止され、これに抗議する労働者の行動(六月蜂起)が起きたのです。

六月蜂起は武力で鎮圧され、1848年11月、(三権分立)を定めた憲法が制定されました。

1848年12月には男性普通選挙に基づく大統領選挙が実施され、(ルイ=ナポレオン)がナポレオンの甥ということで初代大統領に当選したのです。

1851年12月、ルイ=ナポレオンは、国民からの支持を見越してクーデタを起こし、1852年11月、帝政復活の是非を問う人民投票が実施されて皇帝となり、(ナポレオン3世)となったのです。

ここから(第二帝政)の始まりなのです。

二月革命はその後ドイツ・オーストリアにも波及し、(ウィーン)では1848年3月に蜂起が起こり、(メッテルニヒ)は失脚しました。

続いて、(ベルリン)でも民衆が憲法制定を求めて蜂起すると、プロイセン国王は譲歩して、自由主義的内閣が成立しました。この一連を(三月革命)と言います。

またハプスブルク領内でのハンガリーでは(コシュート)を指導者とするナショナリストが完全な独立・農奴制と封建制度の廃止、憲法の制定を求めて蜂起しました。

他にもベーメン、イタリアでも民族運動が起き、(諸国民の春)と呼ばれる状況が生まれたのです。

そしてこれらの出来事により、(ウィーン体制)は崩壊したのです。

ヨーロッパ各地で起こったこれら一連の革命・民族運動は(1848年革命)と総称されており、この革命の結果、西欧諸国では自由主義・民主主義による政治改革が、東欧諸国では(ナショナリズム)による民族自立が主要な目標となったのです。

【確認テスト】ウィーン体制の流れを覚えよう!

【問題1】

ウィーン会議の議長は?

解答

オーストリア外相のメッテルニヒです

【問題2】

ドイツイタリアでは正統主義に対する反対運動として、自由主義的な統一国家を求める何運動を起こしたか?

解答

ナショナリズム運動

【問題3】

イギリスの第1回選挙法改正で廃止されたものは?

解答

腐敗選挙区

【問題4】

ギリシアは1830年、何の会議で独立が国際的に承認されましたか?

解答

ロンドン会議

ちなみにですが、その後の1832年にギリシア王国が成立しました

【問題5】

社会問題の発生や労働組合の活発化の中、イギリスは未成年者の労働時間制限と労働監督官の設置を求めた何を1833年に制定しましたか?

解答

工場法

【問題】

1848年2月、フランス国王ルイ=フィリップは亡命し、共和政の臨時政府として何が樹立されましたか?

解答

第二共和政

ちなみにこの一連を二月革命と言います。

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