・どういう流れでルイ16世とマリー=アントワネットは処刑されたんだ?
・総裁政府と統領政府の違いは何だ?
・覚える内容が多すぎて混乱してしまう。
近代ヨーロッパ史の中でも覚えることが多くて大変なフランス革命とナポレオンの流れ。
![あまちゃん先生](http://sekaishi-amachan.com/wp-content/uploads/2023/09/天野様_アイコン.png)
はじめから一気に知ることで解決します!
そこでこの記事では以下の内容について解説します。
- フランス革命の構造
- 立憲君主政の成立
- 戦争と共和政[ジャコバンの独裁と終焉を含む]
- 革命の終了
- 皇帝ナポレオン
最後にはフランス革命の流れをより深く定着させる確認テストもあるので、是非最後までお読みください。
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フランス革命の構造
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アメリカ独立革命に続いて、有力な絶対王政の国であったフランスで旧制度(アンシャン=レジーム)をくつがえす革命が起こりました。
中世以来の伝統的なフランス社会は、聖職者が(第1)身分。貴族が(第2)身分。平民が(第3)身分と区分されており、人口の9割以上は(第3)身分でした。
少数の(第1)身分と(第2)身分は広大な土地と全ての重要官職を握り、(免税)などの特権を得ていました。
各身分の中にも貧富の差があり、特に第3身分では、その大部分を占める(農民)が領主への地代や税の負担のために苦しい生活を送る一方で、商工業者などの(有産市民)層は次第に富を蓄えて実力を向上させており、その実力にふさわしい待遇を受けないことに不満を感じていたのです。
ここに(啓蒙)思想が広まり、1789年初めには(シェイエス)が『第三身分とは何か』という小冊子で、第三身分の権利を主張し、第三身分議員に影響を与えたのです。
フランス革命は、こうした状況下に(王権)に対する貴族の反抗をきっかけに始まり、有産市民層が旧制度を廃棄して、その政治的発言力を確立するものとなったのです。
立憲君主政の成立
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イギリスとの戦争を繰り返したフランスの国家財政は行き詰まり、国王(ルイ16世)はテュルゴー・(ネッケル)らの改革派を起用して、特権身分に対する(課税)などの財政改革を試みました。
しかし、特権身分が抵抗したため、1615年以来開かれていなかった(三部会)が招集されたのです。
1789年5月、(ヴェルサイユ)で(三部会)が開かれたのですが、議決方法をめぐって特権身分と第三身分が対立しました。
1789年6月、第三身分の議員は、自分たちが真に国民を代表する(国民議会)であると宣言し、憲法制定までは解散しないことを誓いました。
これを(球戯場[テニスコート]の誓い)といい、第一、第二身分議員にも合流を呼びかけたのです。第二身分からも同調者が増えると、国王も譲歩して、(国民議会)を認めたのです。
国民議会は憲法の起草を始めましたが、これは身分制社会の基本構造の否定を意味していたため、国王は抵抗を始め、改革派と注目されていた財務総監の(ネッケル)を罷免したのです。
これに反発するパリの民衆は、パンの値上がりに苦しんでいたこともあり、パリの(バスティーユ牢獄)を7月14日に攻撃したのです。この事件後、全国的に(農民蜂起)が起こり、貴族領主の館が襲撃されました。
国民議会は1789年8月4日に自由主義的貴族の提案で(封建的特権)の廃止を決定し、領主裁判権や教会への(十分の一税)が無償で廃止されたのです。
ちなみにですが、封建地代の廃止はまだ(有償)とされていたため、農民が土地を獲得することは困難なものでした。
1789年8月26日、議会は(ラ=ファイエット)らの起草した(人権宣言)を採択し、自由・所有・安全・抵抗などの基本的人権や国民主権が認められたのです。
身分制社会を全面的に否定した封建的特権の廃止と人権宣言を国王は認めようとしなかったため、パリの民衆は(ヴェルサイユ)に行進し、国王一家の住居をパリのテュイルリー宮殿に移させ、封建的特権の廃止と人権宣言の承認を迫ったのです。
国民議会もパリに移り、1790年に全国の行政区画を改め、教会財産を没収し、(ギルド)を廃止して営業の自由を確立し、(メートル法)を採用するなど度量衡統一の方向を打ち出したのです。
1791年9月、一院制の(立憲君主)政を定め、選挙権を(有産市民)に限定した(1791年憲法)が発布され、国民議会は解散となりました。
しかし、この時すでに国王は(ヴァレンヌ逃亡事件)で失敗しており、国民の信頼を失っていたのです。
戦争と共和政
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1791年10月に開かれた(立法議会)では、革命のこれ以上の進行を望まない(立憲君主)派と大商人の利害を代表して共和政を主張する(ジロンド)派が対立しました。
ヴァレンヌ逃亡事件後、オーストリアとプロイセンは共同でフランスにおける国王の地位の保全を求める(ピルニッツ宣言)を発しました。
この状況下、反革命を支援する外国との開戦を主張する(ジロンド派)と敗戦による革命の終結を目論む国王支持派にフランス国内は分かれ、1792年ジロンド派が政権を握ると、革命に敵対的な(オーストリア)に宣戦したのです。
しかし、軍隊は士官に(王党派)が多数含まれていて戦意に欠け、オーストリア・プロイセン連合軍がフランス国内に侵入するようになったのです。
この危機に際し、パリの民衆と全国から集まった義勇軍は1792年8月、国王のいた(テュイルリー宮殿)を襲い、王権を停止させたのです。この事件を(8月10日事件)と言います。
1792年9月、新たに男性普通選挙による(国民公会)が成立し、王政の廃止、共和政の樹立が宣言されました。ここから(第一共和政)が採用されたのです。
ちなみにですが、第一共和政樹立の直前に、フランス軍は国境に近い小村(ヴァルミー)でプロイセン軍に初めて勝利をおさめています。
国民公会では、急進共和主義の(ジャコバン)派が力を増し、ルイ16世は1793年1月に処刑されました。
ルイ16世処刑の知らせは、諸外国の警戒の念を強めるとともに、国内外の反革命運動を激化させたのです。
イギリス首相(ピット)は、フランス軍が(ベルギー)地方に侵入したのに対抗してフランス包囲の大同盟(第1回対仏大同盟)を作りました。
また王党派と結びついた農民反乱(ヴァンデーの反乱)が国内で起こったのです。
ジャコバン派は内外の危機を乗り切ろうと、1793年6月に(ジロンド派)を議会から追放し、都市の民衆や農民の支持を確保するための政策として、男性普通選挙を定めた(1793年憲法)の制定、封建地代の(無償)廃止、(最高価格令)による価格統制などを採用しました。
(ロベスピエール)を中心とするジャコバン派政権は、強大な権限を握る(公安委員会)を中心に、徴兵制の導入、(革命)暦の制定、(理性)崇拝などを進める一方で、反対派を多数処刑し、(恐怖政治)と呼ばれる独裁体制を国民公会に認めさせたのです。
しかし、外部勢力を撃退して対外的な危機が遠のくと、小土地所有農民や、経済的自由を求める市民層が保守化し、独裁への不満が次第に高まったのです。
(ロベスピエール)はパリ民衆の支持も失って孤立し、1794年7月、(テルミドール9日)のクーデタで権力を失い、処刑されたのです。
革命の終了
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ジャコバン派の没落後、穏健共和政が有力となり、1795年には(制限選挙制)を復活させた新憲法により、5人の総裁からなる(総裁政府)が樹立されました。
しかし、復権を始めた国王支持派と、残った一部ジャコバン派の間にあって、安定性を欠いていました。またイギリス・オーストリア・ロシアなどが(第2回)対仏大同盟を1798年に結ぶなど、再度戦局が悪化したのです。
ちなみにですが、1796年、私有財産廃止をとなえて、政府の転覆を計画した(バブーフ)らが逮捕されたりと社会不安は続いていました。
この状況の中、強力な政府を求める声が高まり、イタリア遠征やエジプト遠征などで名声を上げていた(ナポレオン=ボナパルト)が、一部の総裁と手を結んで(ブリュメール18日のクーデタ)を決行したのです。
直ちに3人の統領が行政を司ることを定める新憲法(1795年憲法)が発布され、(統領政府)が発足したのです。ナポレオンは第一統領の地位に就き、1789年以来10年間続いた(フランス革命)はここに終了したのです。
フランス革命を経て誕生した(国民意識)を持った平等な市民が国家を構成するという(国民国家)の理念は、フランス以外の国々にも広まるとともに、フランス革命の成果を受け継いだ(ナポレオン)の支配に対する抵抗の根拠ともなったのです。
皇帝ナポレオン
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ナポレオンは、革命以来フランスと対立関係にあった(教皇)と1801年に和解し、1802年に(アミアンの和約)でイギリスとも講和して、国の安全を確保しました。
内政では(フランス銀行)を設立して財政の安定をはかり、商工業を振興し、公教育制度整備しました。
さらに1804年3月、(私有財産)の不可侵や法の前の平等、契約の自由など、革命の成果を定着させる民法典(ナポレオン法典)が公布され、身分制社会の破棄が確かなものとされたのです。
1802年に(終身統領)となったナポレオンは1804年5月、国民投票で圧倒的支持を受けて皇帝に即位し、(ナポレオン1世)と称しました。ここから(第一帝政)の始まりです。
1805年イギリスの主導により、ロシア、オーストリアも参加して、(第3回)対仏大同盟が結成されました。
ナポレオンは1805年10月の(トラファルガーの海戦)で、(ネルソン)の率いるイギリス海軍に敗れてイギリス侵攻に失敗するも、オーストリア・ロシア連合軍を(アウステルリッツの戦い)で破り、さらにはプロイセンも破って(ティルジット条約)を結ばせて、ヨーロッパ大陸のほとんどを支配下においたのです。
またポーランド地方に(ワルシャワ大公国)を立てるなど、ヨーロッパ大陸のほとんどを支配下に置いたのです。
これらの過程で、ドイツ西部および南部の16諸邦による同盟(ライン同盟)の結成をナポレオンは主導し、(神聖ローマ帝国)は名実ともに消滅したのです。
1806年、ナポレオンはベルリンで(大陸封鎖令)を発して、ヨーロッパ諸国にイギリスとの通商を禁じ、フランスの産業のために大陸市場を独占しようとしました。
しかし、逆にイギリスからの工業製品の輸入を不可能としたため、ロシア・オーストリア・プロイセンなど農業国の不満を募らせてしまったのです。
また支配下の各地域では、近代市民社会の諸原理が浸透したこともあり、ナショナリズムが広まり、フランスの支配に抵抗する運動が行われました。
スペインでは、1808年にナポレオンの(兄)が国王に即位したことを契機として反乱が始まり、ゲリラ戦略をとってフランス軍を苦しめました。
プロイセンでは、(シュタイン)・(ハルデンブルク)の主導のもと、(農奴制)廃止や行政機構改革などが進められました。
1812年、大陸封鎖に苦しむ(ロシア)は、イギリスとの貿易を再開しました。
ナポレオンは直ちに(ロシア遠征)を行うも、失敗に終わったのです。
1813年、これをきっかけに諸国は解放戦争に立ち上がり、(ライプツィヒの戦い)[諸国民戦争]でナポレオンを破り、1814年にはパリを占領し、ナポレオンを退位させたのです。
その後はルイ16世の弟が(ルイ18世)として即位し、王政が復古されたのです。
しかし、諸国は戦後処理の方針をめぐってまとまらなかったのと、新国王の側近たちは革命の成果を全否定するような態度を取っていたこともあり、国民の不満は溜まっていたのです。
流刑地(エルバ島)から事態を注視していたナポレオンは、1815年にエルバ島を脱出してパリに戻り、ルイ18世を逃亡させて、再度皇帝に復位しました。
しかし、イギリスとプロイセンの連合軍は(ワーテルロー)でフランスを破り、ナポレオンは再度退位して(セントヘレナ島)に流されたのです。復位したナポレオンの支配はおよそ100日間あったことから、(百日天下)と呼ばれています。
この後は(ルイ18世)が再度パリに戻り、2度目の王政復古が行われました。
【確認テスト】フランス革命の流れを覚えよう!
こちらでは、フランス革命の流れがどうだったのか?を覚える問題を5題出題します
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アウトプットをして知識を定着させましょう!
フランス社会で少数の第 1身分、第2身分にはどんな特権がありましたか?
免税
1789年5月に何が約170年ぶりに開かれましたか?
三部会
ちなみにですが、1614年ルイ13世の時に一度三部会は閉鎖されており、それ以来久しぶりに開かれたのです。
王権を停止させた事件は?
8月10日事件
1795年、ナポレオンが決行したクーデタは?
ブリュメール18日のクーデタ
1806年ナポレオンはベルリンで何を発し、ヨーロッパ諸国にイギリスとの通商を禁じましたか?
大陸封鎖令
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