【確認テストつき】ヴェルサイユ体制とは|高校世界史あまちゃん先生

・ヴェルサイユ条約の内容が曖昧。

・第1次世界大戦後のドイツで起きたハイパーインフレーションとは?

・ソ連はスターリンになってどう変わったんだ?

第1次世界大戦後の複雑な国際情勢、整理することが多すぎて覚えるの大変ですよね?

あまちゃん先生
あまちゃん先生

第1次世界大戦前後の各国の状況を1つずつじっくり解説します。

そこでこの記事では以下の内容について解説します

  • ヴェルサイユ体制
  • 国際協調と軍縮の進展
  • 西欧諸国の停滞[戦後のイギリス、フランス、ドイツ]
  • イタリアのファシズム
  • 東欧・バルカン諸国の動揺
  • ソ連の社会主義建設
  • アメリカ合衆国の繁栄

最後にはヴェルサイユ体制の流れをより深く定着させる確認テストもあるので、是非最後までお読みください。

ヴェルサイユ体制

1919年1月連合国27カ国代表による(パリ講和会議)が開かれました。

講和の基礎になる原則は、アメリカ合衆国の(ウィルソン)大統領が、1918年1月に発表した(十四ヶ条)でした。

ウィルソンは、ヨーロッパ列強の(秘密外交)や非民主的な政治を批判し、平和や社会的公平への民衆の願望を受け止め、(自由)主義経済のもとで戦争を防止する国際秩序を実現して、ロシア革命の(社会)主義に対抗しようとしたのです。

しかしフランスの(クレマンソー)やイギリスの(ロイド=ジョージ)は植民地などの既得権益を手放さず、敗戦国にも厳しい態度でのぞんだので、この原則は部分的にしか実現しなかったのです。

民族自決)権の適用が旧ロシア・オーストリア・オスマン帝国下の諸民族独立に限定され、(ドイツ)の租借地や植民地が戦勝列強国に分配されたことは、(中国)をはじめ、アジア・アフリカの人々を失望させたのです。

1919年6月、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿で、ドイツとの(ヴェルサイユ条約)が調印されました。

ドイツはすべての植民地を失い、(アルザス)・(ロレーヌ)をフランスに返還し、(ポーランド)など周辺国に国境地域を割譲したほか、(ラインラント)の非武装化、軍備制限、巨額の賠償金が課せられたのです。

他の同盟国の敗戦国との講和条約もパリ周辺の宮殿などで調印され、オーストリアは(サン=ジェルマン)条約、ハンガリーは(トリアノン)条約、ブルガリアは(ヌイイ)条約、オスマン帝国は(セーヴル)条約をそれぞれ結びました。

オーストリアはドイツ人のみの小共和国になり、旧オーストリア=ハンガリーと旧ロシア帝国領から、(ハンガリー)・(チェコスロヴァキア)・ユーゴスラヴィア・フィンランド・(ポーランド)・(エストニア)・(ラトヴィア)・(リトアニア)の独立が認められました。

旧オスマン帝国内では、アラビア半島で(イブン=サウード)が独立し、シリアは(フランス)の、イラク・トランスヨルダン・パレスチナは(イギリス)の委任統治のもとに置かれたのです。

十四ヶ条とヴェルサイユ条約以下の各講和条約で形成された国際体制は、全体として(ヴェルサイユ体制)と呼ばれ、それを統括する場として(国際連盟)の設置が決まったのです。

国際連盟は、世界の恒久平和を目指す史上初の大規模な国際機構であり、スイスの(ジュネーヴ)に本部を置き、(総会)・理事会・連盟事務局を中心に運営され、(国際労働機関)と常設司法裁判所が付置されたのです。

しかし、ドイツなど敗戦国とソヴィエト=ロシアは排除され、アメリカ合衆国も国際的負担に反対する(上院)がヴェルサイユ条約批准を拒否したため、(国際連盟)に参加しなかったのです。

そのため、侵略国家への(制裁)手段が不十分であったのです。

アメリカでは民主党のウィルソンの後を継いで、1921年に共和党の(ハーディング)が大統領になりました。

共和党はアメリカの外交の自由を唱え、国際連盟加盟に反対したのですが、軍事力によらず、国際経済の拡大によって世界の安定をはかる構想を持っており、1921年11月から1922年2月にかけて、米・英・仏・日・伊など9カ国が参加する(ワシントン会議)を開催しました。

会議では、米・英・日・仏・伊の主力艦の保有トン数の上限と保有比率を定めた(海軍軍備制限条約)が合意され、比率はそれぞれ():():(1.67):(1.67)とされたのです。

また(中国)の主権尊重・領土保全・門戸開放・機会均等を約束した(九カ国条約)と太平洋諸島の現状維持を約束した米・英・仏・日の(四カ国条約)も締結され、(日英同盟)は解消されたのです。

これによってアジア・太平洋地域の新しい国際秩序として(ワシントン体制)が成立したのです。

なお、会議とは別にこの機会に日中間の交渉が行われ、(山東半島)の旧ドイツ権益を(中国)に返還することが決まったのです。

国際協調と軍縮の進展

第1次世界大戦後しばらくは、国境画定や講和条件に反発する国際紛争が続発しました。

トルコは(ムスタファ=ケマル)のもとで、ギリシアと(ギリシア=トルコ戦争)を起こし、ギリシアが敗北して(イズミル)を放棄し小アジアから撤退すると、トルコは連合国と交渉し、1923年7月セーヴル条約に変わる(ローザンヌ条約)を結び、(イズミル)を獲得したのです。

ポーランドは1920年ソヴィエト=ロシアに侵攻して(ポーランド=ソヴィエト戦争)を起こし、ベラルーシとウクライナの一部を得ました。またイタリアはユーゴスラヴィアと国境紛争を起こして、(フィウメ)を獲得したのです。

中でも1923年の(ルール)占領で頂点に達した賠償支払いをめぐるフランスとドイツの対立は、戦後ヨーロッパの国際関係安定に大きな障害となったのです。

しかし、1924年以降(国際協調)の気運が広がって、1925年の(ロカルノ)条約では、ドイツと西欧諸国との国境の現状維持と相互保障が決まり、1926年ドイツは(国際連盟)に加入したのです。

1928年にはフランスの(ブリアン)外相とアメリカの(ケロッグ)国務長官の提唱で(不戦)条約が15カ国[のちに63カ国]によって結ばれ、国際紛争解決の手段として(戦争)に訴えないことが誓われたのです。

またワシントン会議で残された(補助)艦の制限も1930年の(ロンドン)会議でまとまり、米・英・日の補助艦の保有比率が(10)・(10)・()として決まったのです。

西欧諸国の停滞

第1次世界大戦後、イギリスとフランスは(ドイツ)の海外植民地、中東の旧オスマン帝国領などを勢力下におさめ、海外植民地・勢力圏を史上最大規模に拡大しました。

しかし、イギリスは国際金融センターの地位を(アメリカ)に奪われ、フランスも(ロシア)への投資を(ロシア革命)によって回収できなくなるなど、大戦で受けた経済的打撃から回復せず、不況に苦しんでいました。

[戦後のイギリス]

イギリスでは、1918年の(第4回)選挙法改正で、21歳以上の男性と(30歳)以上の女性に選挙権が拡大され、1918年の(第5回)選挙法改正で、(21歳)以上の男女に選挙権が認められたのです。

戦後、自由党にかわって(労働)党が保守党につぐ第2党の地位につき、1924年には労働党党首(マクドナルド)が自由党と連立内閣を組織しました。

しかし、マクドナルド政権は(ソ連)承認などを除くと独自色を出せないまま短命に終わり、1924年以降は保守党の(ボールドウィン)政権が成立しました。

1929年の総選挙では(労働党)が辛勝し、再び(マクドナルド)を首相とする労働党の単独内閣が成立したのです。

アイルランドは、1922年北部の(アルスター)を除いて、(アイルランド自由国)として自治領となりました。1926年と1930年のイギリス帝国会議の決議によって、1931年(ウェストミンスター憲章)が成立し、各自治領は(イギリス連邦)の一員として、王冠への忠誠のもとに本国と対等の地位を得たのです。

しかし、アイルランドでは完全独立を求める(デ=ヴァレラ)が1930年代に政権を握ると、1937年新憲法を制定して、国名を(エール)とし、イギリス国王への忠誠を止めて、実質的に連邦体制から離れたのです。

[戦後のフランス

国土が戦場となったフランスは、戦後も(ドイツ)の強大化を恐れていました。

そのためフランスは、ドイツに課された(ヴェルサイユ条約)の義務、特に賠償金支払いを厳しく要求し、(ポワンカレ)右派内閣の時には、支払い不履行を理由に(ルール)占領を強行したのです。

しかし、対ドイツ強硬外交は国際的批判を浴びて失敗し、1924年左派連合政権が登場しました。1925年に外相となった(ブリアン)はドイツとの和解につとめ、国際協調に貢献したのです。

[戦後のドイツ]

ドイツでは敗戦後、兵士・労働者の革命組織(レーテ)を支援して、民主化と急進的社会改革推進を要求する(共産党)などの左派と、保守的市民層や軍部・経済界と結んで革命を政治改革にとどめ、講和交渉や平時体制への移行を優先する(社会民主党臨時政府)との間で激しい対立が起きていました。

共産党は、反戦を掲げて社会民主党最左派が組織した(スパルタクス)団を中心に戦後結成されたものであり、共産党左派の蜂起は1919年前半には武力で制圧され、(ローザ=ルクセンブルク)と(カール=リープクネヒト)らの党指導者は殺害されたのです。

社会民主党は軍部など保守勢力と結んで、1919年初め(共産党)を押さえ込みました。

中部ドイツの(ヴァイマル)で開かれた国民議会では社会民主党の(エーベルト)が大統領に選出され、民主的な憲法(ヴァイマル憲法)が制定され、(ヴァイマル共和国)が成立したのです。

しかし、賠償支払い、帝政派や右翼による反共和国活動などによって、経済と政局が安定せず、特に1923年のフランスの(ルール)占領には(不服従)運動で抵抗したため生産が低下し、激しい(インフレーション)が進んだのです。

1923年夏、首相となった(シュトレーゼマン)は、(レンテンマルク)を発行してインフレーションを克服し、1924年、ドイツの賠償金支払い額を当面軽減する(ドーズ案)の受け入れとアメリカ合衆国の協力で賠償金支払いの緩和と資本導入に成功して経済を立て直し、国際協調外交を推進したのです。

1929年まで外相を務めた(シュトレーゼマン)は国際連盟加盟を実現し、ドイツの国際的地位の回復をはかったのですが、経済の基礎が安定しないうちに(世界恐慌)にみまわれ、ドイツ経済は破滅的状況になったのです。

また1925年にエーベルト大統領が死去すると、後任には大戦中の参謀総長で帝政主義的心情をもつ高齢の(ヒンデンブルク)が選ばれ、ドイツ国民の中にある深い政治的亀裂を明らかにしたのです。

イタリアのファシズム

[戦後のイタリア]

イタリアは戦勝国だったのですが、戦後期待した領土獲得を実現できず、国民を失望させ、国内では戦後のインフレなどによる不満を背景に、都市部での労働運動や、労働条件の改善を求める農業労働者などの多様な社会運動が急速に拡大したのです。

1920年社会党左派の指導で()イタリアの工業地帯を中心に、労働者が社会改革を求めて工場を(占拠)し、また貧しい農民も各地で土地を占拠したのです。

しかし、これらの運動が失敗すると、地主・資本家・軍部などの支配層の反撃が始まりました。

この流れに乗じて(ムッソリーニ)率いる(ファシスト)党が勢力を拡大したのです。

ファシスト)党は危機の原因を左翼勢力の活動や議会制民主主義にあると考え、左翼の運動を(暴力)で攻撃し、強権的な指導者や国家が国民生活を統制して国民統合を主張する(全体)主義のもと、イタリア政府を攻撃したのです。

1922年ムッソリーニはファシスト党による(ローマ進軍)を組織して政府に圧力をかけ、国王の指示で首相に任命されました。ムッソリーニは(ファシズム大評議会)に権力を集中させて(一党独裁体制)を確立したのです。

対外的には、1926年(アルバニア)を保護国化し、また1929年に(ラテラノ)条約を結んで、イタリアと国交絶縁状態にあった(ローマ教皇庁)と和解し、教皇庁(ヴァチカン市国)の独立を認めたのです。

ムッソリーニは大衆動員を積極的に利用し、社会事業や国内開発も推進したのですが、市民的自由や人権を無視する(国家主義)を掲げ、反対派を弾圧したのです。

この新しい政治体制や思想は(ファシズム)と呼ばれました。

東欧・バルカン諸国の動揺

大戦後、東ヨーロッパ・バルカン地域では多くの新興国が成立しました。

チェコスロヴァキア・ポーランド・ルーマニアは(フランス)と連携してヴェルサイユ体制を守ろうとしたのです。

しかし、新興国はいずれも少数民族問題を抱えて国内の政治的まとまりを欠いていたほか、(チェコスロヴァキア)を除いてほとんどが(農業国)で、1920年代の世界的農業不況による打撃を受けて、経済的にも苦境に陥ったのです。

そのため1920年代末には、過激な民族主義や強権政治で国民を統合しようとする国が多くなりました。

ポーランドは1920年、(ウクライナ)に侵入してソヴィエト=ロシアと戦争を起こして領土を拡大したのですが、国内の議会政治は早くから混乱し、1926年独立運動の指導者(ピウスツキ)がクーデタで実権を握りました。

ハンガリーでは1919年の(ロシア革命)にならって革命が成功したのですが、革命政権は間も無く倒されて、その後は(権威)主義体制が続いたのです。

バルカン地域では、セルビアなど南スラブ系民族が(セルブ=クロアート=スロヴェーン王国)としてまとまり、1929年には国名を「南スラブ人の国」を意味する(ユーゴスラヴィア)と改称したのです。

ソ連の社会主義建設

ソ連では1924年、レーニンが死ぬと、後継者争いがソ連共産党内で起き、1922年党書記長となった(スターリン)が、一時はレーニンにつぐ実力者と注目されていた(トロツキー)の追い落としに成功したのです。

スターリンは、ソ連1国だけで社会主義建設ができるとする(一国社会主義論)を掲げ、新しくソ連共産党に入党した若い層に好まれるかたちで支持の声を集めたのです。

1928年スターリンは(ネップ)にかわって重工業化の推進による社会主義建設を指示し、(第1次五カ年計画)を実行しました。

農業でも集団化と機械化が命じられ、集団農場(コルホーズ)・国営農場(ソフホーズ)建設が強行されたのです。

ソビエト政府は集団化に抵抗する多数の農民を逮捕・投獄し、生産物の強制供出を実行しました。

そのため1932年〜33年には、農民に多くの餓死者が出たのですが、集団化は完了したのです。

一国社会主義論が優勢となると、(コミンテルン)もソ連国家の擁護を主要な課題とみなし、スターリンとソ連共産党の意向を重視するようになったのです。

アメリカ合衆国の繁栄

第1次世界大戦中、合衆国は連合国に物資・借款を提供して、大きな利益をあげ、戦後は債務国から(債権)国に転じて、国際金融市場の中心の1つになったのです。

戦後、合衆国では(孤立)主義的雰囲気が強まり、(国際連盟)への加入を拒否したのですが、(共和党政権)は国際機関によらない軍縮や(不戦条約)などの国際協調を推進したのです。

また合衆国は国内市場を(高関税)政策でまもる一方、イギリス・フランスなど旧連合国が求めた(戦債返済の免除)を拒否したのです。

そのため、イギリス・フランスはドイツに対する「天文学的な」賠償金を取り立て、それが戦後世界の混乱を招いたのです。

そこでアメリカは(ドーズ案)や(ヤング案)などを提案して、賠償問題の現実可能な解決策を提案するとともに、西ヨーロッパに対する投資を助長した結果、1920年代後半には西ヨーロッパの経済も復興するようになったのです。

アメリカ国内では大戦中に多くの(女性)が軍需生産などに協力し、1920年に(女性)参政権が認められ、(民主主義)の基礎が拡大されました。

1921年からは(ハーディング)・(クーリッジ)・(フーヴァー)の3代12年にわたって(共和)党政権が続き、自由放任政策がとられ、1920年代のアメリカ経済は(「永遠の繁栄」)を謳歌していたのです。

この時期に(フォード)車に代表される自動車や家庭電化製品の普及などによって大量生産・大量消費社会が形成されるとともに、ラジオ・映画・スポーツなどの大衆娯楽も発展しました。

しかし、伝統的な白人社会の価値観も強調され、(禁酒)法が制定されたほか、1924年に成立した(移民)法では、東欧や南欧系の移民の流入が制限され、日本を含むアジア系移民の流入が事実上禁止されたのです。

【確認テスト】ヴェルサイユ体制の流れを覚えよう!

【問題1】

1919 年 6 月、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿で、ドイツとのヴェルサイユ条約が調印されました。

ドイツはすべての植民地を失い、何と何をフランスに返還しましたか ??

解答

アルザスロレーヌ

【問題2】

トルコはムスタファ=ケマルのもとで1923 年 7 月セーヴ ル条約に変わる何条約を結び、何を獲得したか? 

解答

ローザンヌ条約イズミルを獲得しました

【問題3】

イギリスでは、1918 年の何回目の選挙法改正で、21 歳以上の男女に選挙権が認められたか??

解答

第5回目の選挙法改正

【問題4】

イタリアではムッソリーニの下、1926年にどこを保護国化しましたか?

解答

アルバニア

【問題5】

ソ連ではスターリンは、ソ連 1 国だけで社会主義建設ができるとする何を掲げたか?

解答

一国社会主義論

【問題6】

アメリカでは、1921 年からは(ハーディング)・(クーリッジ)・(フーヴァー)の 3 代 12 年にわたって何党政権が続きましたか?

解答

共和党

【動画で一撃攻略!】近代ヨーロッパ史完全攻略

ヴェルサイユ体制だけでなく、帝国主義など近代ヨーロッパ史の流れを一撃で攻略されたい方におすすめの解説となっています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です