【確認テストつき】第1次世界大戦とは|高校世界史

・バルカン戦争の流れが微妙

・第1次世界大戦の流れをはじめからじっくり整理したい。

・ロシア革命の流れとは?

第1次世界大戦成立前の流れ、そして大戦中に起きたロシア革命の流れも整理しなくてはいけない第1次世界大戦の流れ。

あまちゃん先生
あまちゃん先生

第1次世界大戦前後の複雑な流れをはじめからじっくり解説します。

そこでこの記事では以下の内容について解説します

  • バルカン半島の危機
  • 第1次世界大戦の勃発
  • 戦時外交と総力戦
  • 大戦の結果
  • ロシア革命
  • ソヴィエト政権と戦時共産主義
  • ネップとソ連の成立

最後には第1次世界大戦の流れをより深く定着させる確認テストもあるので、是非最後までお読みください。

バルカン半島の危機

列強体制が分裂して、イギリス・フランス・ロシアとドイツ・オーストリアの対抗関係が生じると、イタリアを含むこれらすべての列強の利害が交錯する(バルカン諸国)や(オスマン帝国)での動向が、列強の関心の焦点となりました。

なかでもオーストリアは、国内のスラブ系諸民族に(パン=スラブ)主義の影響が及んで分離・自治運動が激化することを恐れ、バルカン地域で(セルビア)などスラブ系諸国の台頭をおさえこもうとしたのです。

1908年、オスマン帝国で(青年トルコ革命)が起きて国内の混乱が生じると、オーストリアはベルリン会議において行政管理権を認められていた(ボスニア)・(ヘルツェゴヴィナ)の併合を敢行したのです。

ちなみにですが、(ブルガリア)はこの時オスマン帝国からの独立を宣言し、翌年の1909年に国際的に独立が承認されました。

オーストリアに併合されたボスニア・ヘルツェゴヴィナは住民の多くが(南スラブ系)であり、南スラブの盟主を目指す(セルビア)が編入を望んでいました。

オーストリアに反発したセルビアは、同じ(ギリシア正教)国であり、スラブ世界の盟主を自任していた(ロシア)に支援を求めたのです。

ロシアは、オーストリアのバルカン半島進出に対抗して、1912年セルビア・(ブルガリア)・(モンテネグロ)・(ギリシア)のバルカン4国を(バルカン同盟)に結束させました。

1912年バルカン同盟は、(イタリア=トルコ戦争)に乗じて、オスマン帝国と(第1次バルカン戦争)を始めました。結果は、バルカン側が勝利しました。

しかし、その直後、獲得した領土の分配をめぐってセルビアとブルガリアが対立したことから、(ブルガリア)と他のバルカン同盟国間での(第2次バルカン戦争)が始まったのです。

ここでは(オスマン帝国)もブルガリアを攻撃し、割譲した領土の一部を取り戻しているのです。

バルカン諸国はそれぞれ特定の列強と結びついていたことから、バルカン半島での勢力関係の変動は列強間の対立をさらに悪化させたのです。このため、バルカン半島は(ヨーロッパの火薬庫)と呼ばれたのです。

第1次世界大戦の勃発

第2次バルカン戦争から1年もたたないうちに、1914年6月、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの州都(サライエヴォ)でセルビア人によって、オーストリア帝位継承者夫妻が暗殺されました。

オーストリアが事件はこれをスラブ民族運動をおさえる良い機会と捉え、ドイツの支援を得て1914年7月(セルビア)に宣戦すると、ロシアは(セルビア)の支援を表明したのです。

1914年8月、他の列強諸国も同盟・協商関係に従って参戦し、ドイツ・オーストリアなどの(同盟国)側と、フランス・ロシア・イギリス・日本などの(協商国)[連合国]側に分かれて(第1次世界大戦)が始まったのです。

その後、オスマン帝国・(ブルガリア)が同盟国側で参戦し、三国同盟から離れた(イタリア)、さらに大戦後期にアメリカ合衆国が(連合国)側で参戦したのです。

反戦を掲げた(第2インターナショナル)は、参戦国の社会主義政党の多くが自国政府を支援したため事実上解体し、主要参戦国では、諸政党が結束して政府を支持する(挙国一致体制)が成立したのです。

第1次世界大戦はドイツ軍の中立国(ベルギー)への侵入から始まりました。ドイツ軍はさらに北フランスに侵攻したのですが、(マルヌ)の戦いで阻止され、以後、西部戦線では両軍とも(塹壕)に立て籠もり、(航空機)・(毒ガス)・(戦車)などの新兵器を投入し、多くの死傷者を出しながら一進一退を繰り返す戦況になったのです。

東部戦線では、ドイツが(タンネンベルク)の戦いでロシア軍を破り、ロシア領内に進撃したのですが、国土の広さや厳しい冬の気候のために決着の見通しは立たなかったのです。

戦争は予期しない(長期戦)・物量戦になり、海軍力に勝る連合国は経済封鎖によってドイツと海外との貿易を断ち、ドイツ側も(潜水艦)でイギリス・フランスの通商路を攻撃し、互いに経済活動を麻痺させようとしたのです。

この中で1917年ドイツは(無制限潜水艦)作戦を宣言し、指定する航路外のすべての船舶を無警告で攻撃したため、(アメリカ)はドイツと外交関係を断絶し、1917年4月ドイツに宣戦したのです。

戦時外交と総力戦

同盟国側・連合国側ともそれぞれの結束を固め、(中立国)を味方に引き入れるために、戦後の敵領土・植民地の分配を決めた(秘密)条約を結んだのです。

この秘密条約の中には、イタリアに「未回収のイタリア」などの領土譲渡を約束し、連合国側でさせた(ロンドン秘密条約)、連合国側でオスマン帝国の配分を約束した(サイクス=ピコ)協定などがあります。

その一方でイギリスはまた、オスマン帝国内のアラブ人を味方につけるために、アラブ民族運動指導者を相手に1915年(フサイン・マクマホン協定)を結んで、アラブ人の独立国家建設を約束しました。

さらに1917年11月にイギリス外相(バルフォア)は、パレスチナにユダヤ人の居住地を建設することを(バルフォア宣言)で認めたのです。このアラブ人とユダヤ人双方に約束したことが、のちのパレスチナ問題の直接の原因となるのです。

物量戦を支えるため、参戦各国では国力を戦争に向けて動員する(総力戦)体制が作られました。

強い権限を与えられた政府の指示で、(軍需工業)優先の産業再編成、(女性)や青少年の軍需工業への動員、食料配給制などが実行され、国民の消費生活全体が統制されたのです。

イギリス・フランスは自国の植民地から資金や物資だけでなく、(労働力)や(兵員)を動員できたので、戦争への統制は緩やかでした。

一方、貿易を断たれたドイツ・オーストリア・ロシアは厳しい(統制経済)を実行したのですが、都市住民の食料不足は深刻で、食料暴動や反戦ストライキが多発しました。

各国政府が多くの負担や義務を課して日常生活を規制すると、国民の間からは、それに見合った(参政権)の拡大を要求する声が高まったのです。

1918年3月、ドイツは第1次世界大戦中に出来た(ソヴィエト=ロシア)[ロシア革命政府]と単独講和を結んで東部戦線を終結させて西部戦線への攻勢に出るも、アメリカの連合軍側からの参戦もあり失敗しました。

秋には、ブルガリア・(オスマン帝国)が降伏し、オーストリアも休戦協定を結びました。残されたドイツの軍部は勝利の見込みがないことを悟り、議会指導者に政権を委ね、(アメリカ大統領)との休戦交渉が始まったのです。

しかし、無謀な出撃命令が続けられたことに対して、ドイツ海軍の水兵の間で反発が起こり、1918年11月3日、(キール軍港)で蜂起が起きたのです。

反乱は全国に広まり、ベルリンで(共和国)の成立が宣言され、皇帝(ヴィルヘルム2世)はオランダに亡命したのです。

1918年11月11日フランスの(コンピエーヌの森)で休戦協定が結ばれ、第1次世界大戦は終わったのです。

大戦の結果

第1次世界大戦は、植民地・従属地域をめぐる列強間の(帝国)主義的な対立を背景に、(イギリス)と(ドイツ)の覇権争いから始まりました。

しかし、大戦が長期の(総力戦)になって、参戦各国に大きな社会変動と国民の意識の変化をもたらすと、古い政治体制や、自由主義的な社会・経済政策は根底から揺らいだのです。

ヨーロッパ列強は、領土や利権配分を中心とする秘密外交から抜け出せなかったのですが、ソヴィエト=ロシアや(アメリカ合衆国)は新しい戦後の国際秩序の理念を提唱して、世界の人々の期待を集めたのです。

大戦の結果、(国民)多数の合意に基づく政治が主流になり、国家が強い力で(経済)に介入し、社会政策を指導する傾向が強くなりました。

また、大戦による破壊と多数の人命の損失は、(ヨーロッパ)中心主義の考え方や、歴史の進歩観、近代科学や技術への楽観的信頼を揺るがし、アジア・アフリカの(植民地)の人々の自立への自覚と期待も高めたのです。

ロシア革命

第1次世界大戦ではロシア軍は敗北を重ね、輸送危機も加わり、都市への食料・燃料供給が低下したのですが、ロシア皇帝(ニコライ2世)と政府は十分な対策を取らなかったのです。

ロシア国民の間では戦争継続に反対する声が広がり、1916年夏には戦争動員に抗議する(中央アジア)諸民族の蜂起も起きたのです。

1917年3月8日首都(ペトログラード)でパンと平和を求める民衆の大規模なデモやストライキが起きると、軍隊も加わってたちまち各地に広がり、労働者・兵士は(ソヴィエト)を組織して、革命を推進したのです。

ロシア皇帝(ニコライ2世)は退位し、ロマノフ朝は消滅してロシア帝政は崩壊しました。

国会(ドゥーマ)の立憲民主党など自由主義諸党派の議員は、(社会革命)党らの支持を受けて、臨時政府を樹立したのです。

この一連の出来事を(二月革命)と言います。

臨時政府は普通選挙による議会招集を決めたのですが、戦争は継続されたのです。一方で労働者・兵士による(ソヴィエト)は影響力を持っていたため、不安定な(二重)権力状態が続いていたのです。

この間に農村では土地を求める(農民)革命が起き、ウクライナや(フィンランド)などでは民族革命が進行したのです。

労働者・農民・兵士たちの不満の声の受け皿となっていた社会主義者の中の急進派(ボリシェヴィキ)の(レーニン)は1917年4月、亡命先のスイスから帰国して、革命をさらに進める方針(四月テーゼ)を示し、ボリシェヴィキの勢力拡大に努めたのです。

1917年7月臨時政府は社会革命党の(ケレンスキー)を首相にすえて、ボリシェヴィキの勢いを抑えようとするも、政府内での対立よりボリシェヴィキの勢いは回復し、1917年11月7日に武装蜂起をし、ロシア政府を(ボリシェヴィキ)は倒し、権力を握ったのです。

翌日、(全ロシア=ソヴィエト)会議で新政権成立が宣言され、全交戦国に(無併合・無償金・民族自決)の原則による講和を呼びかけた(平和)に関する布告や農民革命を認めた(土地)に関する布告が採択されたのです。これが(十月革命)なのです。

ソヴィエト政権と戦時共産主義

ソヴィエト政権はドイツと休戦したが、国際的孤立状況とドイツの優勢な軍事力を見て、1918年3月、ウクライナなどの領土を減少するなどの不利な条件でドイツ側と(ブレスト=リトフスク)条約を結んだのです。

国内では、ボリシェヴィキは(憲法制定)会議を封鎖して、ソヴィエトを基盤とする体制に移行し、社会主義を目指す方針を明らかにしました。

ボリシェヴィキは(共産)党と改称され、首都は(モスクワ)に移されたのです。

1918年後半にはソヴィエト体制は事実上ボリシェヴィキの(一党)支配になり、地主からの土地の無償没収と農民への分配、工業・銀行・貿易の国家管理などが実行されたのです。

レーニンは、ロシアで社会主義を成功させるには、先進資本主義国での革命が不可欠と考え、1919年3月、モスクワで(コミンテルン)を創設して、(世界革命)推進を目指しました。

しかし、(ハンガリー)・ドイツなど敗戦国の革命はいずれも長続きせず、アジアの民族運動への支援も、(中国)を除いて失敗したため、(世界革命)の期待は破れたのです。

ロシア十月革命を認めない諸勢力と共産党との内戦は、1918年春に本格的に開始されました。

そのきっかけとなったのは(チェコスロヴァキア)軍団の内乱なのです。

日本をはじめとする連合国はチェコスロヴァキア軍団の救出を名目としてロシアに出兵し、(対ソ干渉)戦争を始めました。

ソヴィエト政府は(赤軍)を組織し、(チェカ)[非常委員会]を設置して反革命運動を取り締まる一方、危機的な食料状況を解決するために、農民から穀物を強制的に徴発して、都市住民や兵士に配給する(戦時共産主義)を実施したのです。

ネップとソ連の成立

ロシアの内戦は1920年末までには(共産党)側の勝利に終わりました。

また連合国による(干渉戦争)も第1次世界大戦が終わったということもあり、中途半端に撤退したのです。

戦時共産主義の実施は、農業や工業生産の混乱や低下をもたらして、多数の餓死者を出す深刻な事態を招き、1921年初めには、労働者や兵士の中からも共産党(一党)支配への反抗があらわれたのです。

このため(レーニン)は国有化を緩め、穀物徴発をやめて、農民に余剰農産物の自由販売を認め、中小企業の私的営業も許したのです。

これを(新経済政策)[ネップ]と呼び、共産党一党体制や銀行・大工業・外国貿易の国家管理は変えなかったのですが、一定の範囲での資本主義的な営業や(市場)経済を復活させたのです。

共産党は、内戦中旧ロシア帝国の各地に出来た民族政権を打倒したのですが、征服した地域を(ソヴィエト=ロシア)に吸収合併せず、名目上は独自の国家を新しく作ったのです。

これは共産党が現地の(ナショナリズム)をいたずらに刺激することを避けたためであり、こうして生まれた(ウクライナ)・(ベラルーシ)・(ザカフカース)の各ソヴィエト共和国が、ソヴィエトロシアと同盟を結ぶことで、1922年12月、シベリアから(日本)軍が撤退した後、(ソヴィエト社会主義共和国連邦)[ソ連]を結成したのです。

各国は、名目上は主権国家なのですが、実際にはモスクワにある(共産党中央委員会)が全体を統治していたのです。

【確認テスト】第1次世界大戦の流れを覚えよう!

【問題1】

1908 年、オスマン帝国で青年トルコ革命が起きて国内の混乱が生じると、

オーストリアはベルリン会議において行政管理権を認められていたどことどこの併合を敢行したのか? 

解答

ボスニアヘルツェゴヴィナ

【問題2】

第1次世界大戦はドイツ軍による中立国どこへの侵入から始まりましたか?

解答

ベルギー

【問題3】

イギリスは、オスマン帝国内のアラブ人を味方につけるために、アラブ民族運動 指導者を相手に 1915 年に何を結んだか?

解答

フサイン=マクマホン協定

【問題4】

ロシアの労働者・兵士は何を組織して、革命を 推進したのか?

解答

ソヴィエト

【問題5】

ロシアは1922 年 12 月、シベリアから日本軍が撤退した後、何を結成したのか?

解答

ソヴィエト社会主義共和 国連邦[ソ連]

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